益子万吉像はどんな場所にあるのか見てきた。
益子万吉像ってどんな人物なのか?
こんにちは、夫婦で大田原市散策ブログの山田伝太郎です。
今回は大田原市の龍城公園にある益子万吉像について紹介させていただきたいと思います。
その前に益子万吉さんについて簡単に解説させていただきたいと思います。
益子万吉さんは(ますこ まんきち、1872年4月10日 – 1946年1月20日)は、栃木県北部を代表する政治家として活躍し、大田原市の初代市長を務めました。
益子万吉さんは、栃木県那須郡大田原町(現・大田原市)に生まれた。大田原中学を卒業後、東京大学法科大学に進学。卒業後は、弁護士として活動した。
1902年、大田原町長に初当選。以後、6期18年務め、大田原町の発展に貢献した。1926年、栃木県会議員に当選。1930年、衆議院議員に当選とかなりのやり手です。
1931年、大田原町は市制施行し、益子万吉さんは初代市長に就任した。市長在任中は、大田原電機製作所や大興電機などの工場誘致に尽力し、大田原市の工業化を推進した。また、国道4号線の整備や図書館の開設など、市の基盤整備にも取り組んだ。
1946年、市長を退任。翌年、死去した。
益子万吉さんは、大田原市の礎を築いた政治家として、その功績は現在も高く評価されている。
益子万吉の功績は、以下のようなものが挙げられる。
- 大田原町の市制施行
- 大田原電機製作所や大興電機などの工場誘致による工業化の推進
- 国道4号線の整備
- 図書館の開設
ちょっと気になったので調べてみました。
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明治初期の大田原藩主は、第14代大田原藩主・大田原一清さん(おおたわら かずきよ)です。
大田原一清さんは、文久元年(1861年)に第13代藩主・大田原富清さんの長男として生まれました。文久2年(1862年)に父が死去したため、家督を継ぎました。
慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では、藩は新政府に恭順し、明治元年(1868年)10月21日に一清は従五位下・飛騨守に叙位・任官しました。
明治維新後、大田原藩は明治4年(1871年)の廃藩置県により廃藩となり、大田原県となりました。大田原県は明治9年(1876年)に栃木県に編入されました。ということは、もし歴史の流れが変わっていたら栃木県は大田原県だった可能性もあるのですね。栃木県よりは大田原県の方がカッコイイのではないでしょうか?あくまで個人的な意見です。まー日光県と宇都宮県もあったので、そちらの方が有力なのかな?
大田原一清さんは、明治10年(1877年)に26歳の若さで死去しました。
大田原一清さんは、明治維新の激動期を生き抜いた藩主でした。新政府に恭順し、藩の存続に尽力しました。また、明治維新後の藩政改革にも取り組みました。
益子万吉像に向かいます。
益子万吉像を目指して坂道を上ります。
益子万吉像は小雨が降っていたのですが、我々が到着して歩いていると止みました。次第に日差しが見えてきました。これはまさに我々を待っていたかのような歓迎ぶりなのでは?わくわくしますね。
益子万吉像周辺は秋の景色を見せています。紅葉が綺麗ですね。
益子万吉像までの道のりは長いです。ハアハア息遣いが荒くなります。
益子万吉像がある場所を知らないと探すがが大変ですが、今はグーグル地図があるので、おおよその場所がわかりますね。
益子万吉像に近づいてきました。
益子万吉像は遊具が並んでいる近くにあります。この階段は登ると別ルートです。
益子万吉像は龍城公園駐車場から橋に向かうルートで進みます。
益子万吉像が近いです。
益子万吉像が見えてきました。
益子万吉像に到着しました。
益子万吉像はこの場所から大田原市の発展を見守っています。
益子万吉像です。
益子万吉像近くの公園です。
益子万吉像が見つめる大田原市街地方面ですね。
益子万吉像周辺で興味深い実を発見しました。この実の正体は?
わからないまま益子万吉像を後にします。
住所 〒324-0052 栃木県大田原市城山2丁目
益子万吉像の感想
益子万吉像は大田原市の龍城公園内にあります。今でも大田原市を見守っているまさにシンブル的な像です。
アクセス
益子万吉像
大田原市たいらやさん内に10月19日にオープンしたパンと、おやつと、幸せと。さん