日光東照宮の奥宮はそれは東照宮のゴール地点です。
日光東照宮の奥宮ってどんなところなのか?【拝観料が値上がりしてます】
奥宮(おくみや)とは、拝殿・鋳抜門(いぬきもん)・御宝塔からなる御祭神の墓所です。家康公が眠るとされる日光東照宮でもっとも神聖な場所です。
ここは江戸時代から歴代徳川将軍関係者しか入ることができなかった特別な場所でした。大名でさえ入ることもできない、ましてや一般庶民などでは、けっして立ち入ることができなかった神聖な場所になります。
しかしそれがなぜか? 1965年の日光東照宮三百五十年大祭を記念して、特別に一般公開されてから現在まで見られるようになっています。
もしかすると家康公の骨は日光にはなく、静岡にあるのかもしれません。その調査がひそかに行われ、その結果、一般公開がされたのかもしれません。そんなことがあったら悲しいですが・・・真実はわかりません。
そして、訪ねてみて意外に思ったのは、奥宮が広いことです。建物もいろいろとありました。
ますは、奥宮に続く石段の入口には坂下門(さかしたもん)があります。
門の上の欄間には、鶴の彫刻が施されています。さらに腰の部分の羽目板には、ぼたんやからくさ模様の彫刻がされています。
江戸時代では、門は閉じられ、重要な場所として単純な門の造りではなく、どこか厳格な溢門だと感じられます。が、あまり気にせずさくさく上がります。階段は長いので、ここは急ぎます。
一番気になるのは、修学旅行生の子供たちです。元気よく階段を上ります。楽しそうです。一方、我々初老組は階段で足が止まり、はあはあしています。
家康公のパワーを分けてください。元気玉が欲しい。そう叫びたいほどの悲痛です。老いには勝てません。
奥宮日光東照宮の境内の眠り猫から奥宮へ続く道です。石づくしの道を歩いて行きます。この先の階段も石階段になっていて、道はすべて石製です。ずばり石廊下とも呼ばれています。階段は207段もあります。お、恐ろしい段数です。参考までに入口の眠り猫から奥宮までの所要時間は約15分必要です。小学生ならば10分ぐらいでしょうか?
奥宮階段部分の石段の1段1段はなんと!一枚の岩を加工して設置されています。さりげなく敷かれている石ですが豪華です。
また石廊下の部分・階段の端の石柵も切り出した石を組み合わせたものではなく、1枚の岩を削って丁寧に造られています。
このようなことから日光東照宮がどれほどのパワーとエネルギーで造営されたかが伺えます。
その上、当時の人々にとって徳川家の絶大なる権力の大きさがよくわかります。
実はこの石段は日光東照宮のパワースポットの1つです。石の一つ一つから神聖なパワーを感じます。
石段の両端は杉で覆われています。また奥宮が家康公が眠る空間であることから、家康公のパワーが満ち溢れているのです。奥宮へ続くこの石段も同様に奥宮から境内へ向けて、強力なパワーが流れています。その証拠にパワーをもらった小学生たちが元気です。走ってます。
ニコニコしています。家康公の力は偉大ですね。
この空間は、かつては歴代将軍のみしか昇段が許されなかったです。
拝殿は奥の宝塔に眠る神様となった家康公に祈りを捧げるための空間です。
拝殿を表側から眺めるとブラックがベースとして塗られ、細部にはゴールドの装飾が施され、フロントにはしとみどが見え、まるで貴族の邸宅のようです。
ところがインサイドは、ゴールドの柱などで彩られています。
殿舎の入口は重厚な造りの戸があり、壁には上下に開閉式の戸が設けられ、殿舎をぐるぐるとしています。
奥宮には新しい植樹も行われています。100年後のためにですね。
奥宮鋳抜門は「いぬきもん」と読みます。
名前から推測することならば、ドアの以外はなんと唐銅の鋳造によって造られた門です。
当初作られた頃は、石造りの門だったようですが、より豪華にしたのでしょう。参考までに当時の石造りの門は、今、宝物館のサイドにディスプレイされています。
ちなみに唐銅とは金銀銅を溶かして造られた合成の金属です。金だけの方が良いと思うのですが・・・まーそこはいろいろとあるのでしょう。
鋳抜門の鋳抜の由来とは、鋳型による製造工程の技法のことです。
イメージするならがガンプラを作るときに工場が元になる型を作ります。それです。
基礎となる扉部分以外の屋根・柱・桟などの部分を鋳型で制作し、鋳抜で型を取り出した事からこの名前になりました。東照宮は当時の最先端技術がいっぱいなのです。
鋳抜とは、
1.鋳型にドロドロに溶かけた金属などを流しこみます。
2.冷めてカチコチに固まった金属を取り出すのですが、これがなかなか大変な作業なのですが、鋳型の後部にあらかじめ穴を作っておき、そこから棒で突いて、鋳型を取り出します。
このことから鋳抜の呼ばれたようです。
日光東照宮奥宮宝塔の下には、八角形の石をコツコツと九段ほど積まれています。それをベースにして、その上に宝塔が建てられています。
驚くことにこの宝塔の下には、なんと家康公が永眠されています。ズバリ家康公の遺骨があることになります。
徳川家康の遺骨はどこにあるのか?
日光東照宮奥宮にあるとされています。しかし、創建以来、誰も掘り出したことがないので、現在までもここに家康公の遺骨が実在するのかしないのか? わかりません。真実はいかに?状態なのです。
今まで採掘調査をしていないのです。また、なぜそのような疑問があるのかといえば、実は最初、家康は能山東照宮に埋葬されたのです。
そのため土葬のお墓を掘り出して遺体を移すなどありえない話だ! となり、遺体は久能山にあるという流れです。つまり分骨は出来ないということです。
久能山東照宮は遺体が移されたと言う記録はないと主張しています。それはそうですね。となると久能山の霊廟の地中深くに遺体は眠っていると。なので、日光東照宮は霊の分祀ということになります。
真実は発掘調査をするしかありませんが、これにはどちらも賛成しないでしょう。
永遠のロマンということでしょう。実はこっそり移したという説もあります。
なお、家康公の遺骨は神柩(しんきゅう)と呼ばれる柩の中に収められています。
最初の宝塔は木造で、後に石造りとなりました。1683年には、今の唐銅製にチェンジされています。
理由は1683年で大規模な地震が発生し、奥社の一部の建造物が損壊したのです。大惨事です。
その後に奥社建造物は再建され、今の唐銅製に造り替えられてたようです。
奥社宝塔の脇にはもう1つ叶杉(叶え杉)と呼ばれる杉のが自生しています。
この叶え杉からもパワーが発せられているようです。
奥社宝塔は日光東照宮でもっともストロングパワーがある空間として有名になっています。
日光東照宮奥宮の感想
日光東照宮の奥宮は実に興味深い空間である。
まず、一つの疑問は家康公の遺骨はどこにあるのか?
それが大きな謎である。なぜ?家康公はそのようなことをしたのか?
考えられる理由の一つは当時まだ安定しきっていなかった江戸政権の基盤を固めるためなのではないだろうか?江戸は東と南はすぐに海となるが、北と西からは大軍が押し寄せることが可能な位置にある。
そこで家康公のパワーが西の大名にも北の大名にも睨みを効かせるために、移したのではないだろうか?
そして、その真意を組めないまま家光さんががんがんお金を投じて豪華な建物に替えたのではないだろうか? 真実は謎のままである。
最後Gさんにまとめてもらいます。
日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は、日本の栃木県日光市にある神社で、江戸時代の徳川家康を祀った宮殿です。日光東照宮は、徳川家康の霊廟である奥宮(おくみや)も含まれています。
奥宮は、日光東照宮の本殿から約1キロメートルほど山を登った場所にあります。徳川家康の死後、彼の遺志に従って建立されたもので、厳かな雰囲気を持つ神聖な場所です。
奥宮の特徴的な建物は「日光山輪王寺」と呼ばれ、徳川家康を祀るために建てられました。輪王寺は、日光東照宮と同じく徳川家康の霊廟であり、彼の霊が安置されています。
輪王寺は、豪華な彫刻や金箔装飾が施された建物で、美しい彫刻や絵画が見られます。また、周囲には立派な杉の木々が立ち並び、奥宮周辺の自然環境も美しいです。
日光東照宮奥宮は、日本の歴史と文化において重要な場所であり、多くの人々が訪れる観光スポットです。参拝者は厳かな雰囲気の中で祈りを捧げ、歴史の重みを感じることができます。
Gさん・・・すごいですね。これが10秒で完成してます。
さらに、グーグルのBARDさんの場合は、1秒ぐらいで下記のようにまとまりました。
日光東照宮奥宮は、栃木県日光市にある日光東照宮の奥にある神社です。徳川家康を主神として祀っています。
奥宮は、東照宮の創建者である徳川家康の遺命により、1617年に造営されました。奥宮は、日光東照宮の正殿である陽明門から約1.5km離れた山中にあります。奥宮への参道は、石段で整備されています。
奥宮は、日光東照宮のなかでも最も神聖な場所とされています。奥宮には、徳川家康の墓である宝塔が建っています。宝塔は、高さ約5mの木造建築物です。宝塔の周囲には、石灯籠や狛犬が置かれています。
奥宮は、日光東照宮を訪れた際に、ぜひ参拝したい場所です。奥宮は、徳川家康の偉大さを偲ぶことができる場所です。
コンピューターは凄すぎますね。
日光東照宮鳴龍薬師堂です。しかし、中は撮影ができません。大きな龍の絵が天井に描かれていました。音をカーンと叩くとぶるると震える音が広がりました。
アクセス
日光東照宮奥社参道さんは、階段が辛いです!
日光東照宮奥社参道さんをチャレンジする方たちが苦戦していました!
こんにちは、夫婦で日光市山内散策ブログの山田伝太郎です。
今回は日光東照宮奥社参道さんを紹介させていただきたいと思います。日光東照宮さんの特徴は、なんと石の工事が多いと言われています。その割合は13%です。その中で石がガンガン使われているのが、ずばり徳川家康霊廟さんに向かう奥社参道です。それもそのはず、なんと207段の石段が贅沢に使用されているのです。
日光東照宮奥社参道さんを進んでいきます。
日光東照宮奥社参道さんは石がたくさん使われているのがわかります。まさに石の街道です。
日光東照宮奥社参道さんの石は高級感に溢れています。お高いですね。
日光東照宮奥社参道さんはで気になるのは、石だけではありません。ずばり杉林です。かなり太い杉が並んでいます。
日光東照宮奥社参道さんに沿って巨大杉が並んでいます。杉の森に道がある感じですね。
日光東照宮奥社参道さんのこのストレートは勾配がないので人は少ないです。
日光東照宮奥社参道さんから見える山々を眺めます。
日光東照宮奥社参道さん沿いの杉は巨木すぎて倒れている木もあります。
日光東照宮奥社参道さんの案内版が見えてきました。
日光東照宮奥社参道さんの杉も植え替えがあるようで、細い物もあります。
日光東照宮奥社参道さんの特徴は階段になると急に混んできます。上るのが辛いからですね。
日光東照宮奥社参道さんの石段で列が混んできました。近くを通る小学生たちが楽しそうに階段を上っていきます。
若さは素晴らしいですね。
日光東照宮奥社参道さんを老体なのでゆっくりの上ります。
日光東照宮奥社参道さんの奥社さんが近づいてきました。
日光東照宮奥社参道さんは渋滞なのでゆっくりと待ちます。無理はしません。できません。
日光東照宮奥社参道さんをまったりと進みます。
日光東照宮奥社さんの鳥居が見えてきました。
住所 〒321-1431 栃木県日光市
営業時間 午前10時から午後5時
日光東照宮奥社参道さんの感想
日光東照宮奥社参道さんは、すべて石材が敷かれており、実に神聖な通路です。また207段の階段はハードです。
アクセス
見逃してしまう!日光東照宮眠猫さんと雀さんと坂下門さんの注意点!混んでいるで~
日光東照宮御本社さんは撮影禁止で土足厳禁です。どうやって入るのか?
日光東照宮神厩舎三猿さんは、江戸後期から明治時代にかけて流行しました!
三猿さんは、文化人たちに影響を与えました!
こんにちは、夫婦で日光市散策ブログの山田伝太郎です。
今回は日光東照宮神厩舎三猿さんを紹介させていただきたいと思います。
さて、日光東照宮神厩舎三猿さんの流行は、江戸時代後期から明治時代にかけてです。主に庶民の間で広まったと考えられています。
三猿さんは、日光東照宮神厩舎さんに安置されている猿の彫刻です。
三猿さんは、それぞれ目を押さえている口を押さえている耳をふさいでいる姿をしており、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三戒を表しています。
三戒は、中国の儒教の教えに基づくもので、悪い事を見ない、聞かない、言わない、という戒めです。
三猿さんは、日光東照宮さんの完成した江戸時代前期にはすでに存在していましたが、当時は徳川家公の徳を象徴するモチーフとして、主に武士階級の間でのみ親しまれていました。
しかし、江戸時代後期になると、庶民の生活文化が大きく変化し、三猿さんも庶民の間で広く受け入れられるようになります。
三猿さんが庶民の間で広まった背景には、いくつかの要因が考えられます。
一つは、庶民の間で、三戒に代表されるような、善良で穏やかな生き方を理想とする風潮が高まったことが挙げられます。
また、三猿さんは、江戸時代後期に流行した浮世絵や落語などの芸能作品にも頻繁に登場し、庶民に親しまれるようになりました。
明治時代になると、三猿さんはさらに広く普及し、現代に至るまで、日本を代表する民芸品の一つとなっています。
具体的には、江戸時代後期の浮世絵師・歌川国芳さんの三猿や、落語師・初代三遊亭圓朝さんの「三人猿」などが、三猿の流行に大きく影響を与えたと考えられています。
国芳さんの「三猿」は、三猿を擬人化した風刺画で、当時の社会風刺として人気を博しました。また、圓朝の「三人猿」は、三猿を主人公とした落語で、三戒の教えを説いた作品として、庶民の間で広く親しまれました。
このように、日光東照宮神厩舎三猿さんは、江戸時代後期から明治時代にかけて、主に庶民の間で広まったと考えられます。
日光東照宮神厩舎さんに到着しました。
日光東照宮神厩舎で有名なのは三猿です。
三遊亭圓朝さんの三人猿の題材の素です。
あらすじは、ある村に、見ざる、言わざる、聞かざる、の三人兄弟の猿が住んでいました。三猿は、父親から三戒を教えられて育ち、悪い事を見ない、聞かない、言わない、という生き方を心がけていました。
ある日、三猿は、村で火事が起きているのを見かけました。しかし、三戒を守るために、三猿は火事を見ないように目を押さえて、聞こえないように耳をふさいで、火事のことを誰にも話さずに立ち去りました。
その結果、火事は村中に広がり、多くの家が焼失してしまいました。村人たちは、三猿の三戒を守る姿に怒り、三猿を追い出してしまいました。
三猿は、村を追い出された後、山奥でひっそりと暮らすようになりました。しかし、三猿は、村人たちの怒りを理解することができず、どうして自分たちが追い出されたのか分からずにいました。
ある日、三猿は、山で一人のおじいさんと出会いました。おじいさんは、三猿の三戒の教えを聞いて、三猿にこう言いました。
「見ざる、言わざる、聞かざる、は悪い事を見ない、聞かない、言わない、という教えだが、それはあくまでも、悪い事を見たら、聞いたら、言ったら、その事によって誰かに迷惑をかけてしまう場合の話だ。火事を見たら、聞いたら、言ったら、村人たちの命を救うことができるのに、三戒を守るために何もしないというのは、むしろ悪い事をしていることになるのだ」
おじいさんの言葉を聞いた三猿は、自分がいかに愚かであったかに気づき、深く反省しました。三猿は、おじいさんの教えを心に刻み、再び村に戻り、村人たちに謝罪しました。
村人たちは、三猿の反省を受け入れ、三猿を村に迎え入れました。三猿は、村人たちのために、三戒を守りながら、善良で穏やかな生き方を心がけるようになりました。
この落語は、三戒の教えを説いた作品として、庶民の間で広く親しまれました。また、三猿の愚かさと反省の姿は、当時の庶民の道徳観を反映したものとして、現代でも多くの人々に共感されています。
日光東照宮神厩舎さんは江戸後期にまさに庶民に解放された文化の一つなのではないでしょうか?
日光東照宮神厩舎三猿さんで流行した記念写真があります。
三猿さんを模した記念写真は、日光東照宮さんを訪れた際によく見られます。
この場所で三猿さんを背景に三猿さんの姿を真似て、目を押さえた、口を押さえた、耳をふさいだ、というポーズで撮影するものです。
また神厩舎さんは、三猿の彫刻があるだけでなく、徳川家康公の愛馬「金鯱」の像もあることから、多くの観光客が訪れるスポットです。
日光東照宮神厩舎さんには白い神馬がいます。
日光東照宮神厩舎三猿さんをぐるりと大勢の方が眺めています。
日光東照宮神厩舎三猿さんを撮影している方も多いですね。
日光東照宮神厩舎三猿さんについての説明書きもあります。
日光東照宮神厩舎三猿さんの前の様子です。
日光東照宮神厩舎さんの説明です。
日光東照宮神厩舎さんの様子をもう少し別の角度から眺めます。
日光東照宮神厩舎三猿さんを後にします。
住所 〒321-1431 栃木県日光市山内2301-2
感想
日光東照宮神厩舎三猿さんは、江戸時代後期から明治時代に大流行しました。武士階級から庶民階級の時代の移り変わりと共に、東照宮さんの文化も広がっていきました。
日光東照宮神厩舎三猿さん
日光東照宮さんにある樹齢370年。徳川家光公が植えた高野槇の現在の姿は?
下今市駅周辺の和菓子屋なら二宮堂さんは、甘めのすあまが好きな人にはかなりおすすめな和菓子店さんです。完成されたすあまは、とても美味しいので下今市駅周辺に用事がある時には、家族以外の親戚や友人にも買っていくをおすすめします。
下今市駅周辺の和菓子屋なら二宮堂さんは、甘めのすあまが好きな人にはかなりおすすめな和菓子店さんです。完成されたすあまは、とても美味しいので下今市駅周辺に用事がある時には、家族以外の親戚や友人にも買っていくをおすすめします。