金町観音堂といえば松尾芭蕉の河上とこの川下や月の友です!

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金町観音堂は松尾芭蕉の河上とこの川下や月の友です!


金町観音堂ってなにかな?


こんにちは、大子伝太郎です。今回は大子町の金町観音堂を紹介させていただきたと思います。金町観音堂と聞いて松尾芭蕉先生ですね。と答えられる人はあまりいないと思います。(大子町では別として)実は、河上とこの川下や月の友の句は続猿蓑に収められた句なのです。

 時代は江戸時代1824年になります。あの有名な小林一茶先生の門人である信濃のお医者さんである佐藤魚淵さんが建立したといわれています。

 

 佐藤魚淵さんってどちらさまでしょうか? はいそうなりますね。彼は江戸時代の中後期の俳人になります。1755年生まれ1834年に80歳で死去。
長野県水内郡長沼村のお医者さんです。小林一茶先生の友人的な門人です。

 村の日吉神社に松尾芭蕉先生の句碑を建立したりしています。また俳人としての活動としては、木槿むくげ集を刊行しています。さらに、社殿まで建設し、迹祭【あとまつり】を出版しました。

 ということで、松尾芭蕉先生が大好きで句碑を建立した方です。なのでこちらの金町観音堂も建立された方となります。

 ところで続猿蓑とは? 続猿蓑ぞくさるみのは江戸中期の俳諧集2冊のことです。沾圃せんぽが選んだものに、芭蕉先生と支考さんが加筆したとされています。江戸時代の1698年に刊行しています。蕉門の連句と発句が集められており、軽みの作風が示されています。

 ちなみに沾圃とは、 服部沾圃さんのことです。江戸時代の1663年生まれ1745年83歳死去。能役者であり俳人でもあります。

 宝生重友の3男として生まれ、野々口立圃りゅうほの養子となります。陸奥平藩現在の福島県の内藤義英【露沾】に約30年間つかえました。

 1693年に松尾芭蕉先生の晩年の弟子となります。そして、2代立圃をつぎます。ということで松尾芭蕉先生の晩年のお弟子さんです。

 支考さんってどちらさまでしょうか? 各務支考【かがみしこう】さんは、幼い頃に父を失い、大智寺に小僧として預けられました。その後、姉の嫁ぎ先である各務甚平の養子となっています。

19歳の頃に還俗し、京都や伊勢で和漢の学問を修めました。さらに26歳にして蕉門に入り、2年後葛の松原を発表しております。30歳のときには、芭蕉先生の続猿蓑の編集に加わりましたが、その数ヶ月後に芭蕉先生が病没してしまいます。また、このとき芭蕉先生の遺書を代筆したりもしています。まとめると松尾芭蕉先生のお弟子さんです。

 全体をまとめると、金町観音堂は松尾芭蕉先生を尊敬する医師であり、俳人である佐藤魚淵さんが建立し、現在まで残っている貴重な建物である。ということですね。

金町観音堂

金町観音堂についての説明が書かれています。

金町観音堂

金町観音堂の前の通りはすぐそばに久慈川が流れています。近くに鈴木菓子店さんもあります。

金町観音堂

金町観音堂から300メートル離れたところにだいご小学校があります。

金町観音堂

金町観音堂にある松尾芭蕉先生の石碑です。

金町観音堂

こちらが金町観音堂になります。200年ぐらい前の建物です。歴史を感じますね。

金町観音堂

金町観音堂はなんと大子町の観光スポットになっています。しかし、駐車場はありませんのでご注意ください。

金町観音堂

金町観音堂の境内は植物が賑やかです。

金町観音堂

金町観音堂の花たちです。

金町観音堂

金町観音堂の石碑になります。

住所 茨城県久慈郡大子町大字


金町観音堂の感想


わたしは正直、金町観音堂の存在を知りませんでした。たまたま鈴木菓子店さんまで歩いて行った帰りに周囲に名所がないか調べたところ近くにある観音堂を見つけることができました。ラッキーでした。

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