高久愛宕山公園奥にある高久神社さん
高久愛宕山公園奥にある高久神社さんってどんな感じなのか?
こんにちは、那須観光ブログの高久伝太郎です。今回は高久神社さんを紹介させていただきたいと思います。
高久神社というと茨城県桜川市高久770番にもあります。こちらも地名が高久ということから来ているようです。では、この二つ高久神社はまったく関係ないのか? 高久という名を元に調べてみたいと思います。
まず高久さんという方は、那須周辺にも多くおられます。その高久さんから調べてみたいと思います。高久さんは常陸国の那珂郡高久邑の発祥のようです。常陸こtくとは、今の茨城県ですね。さて、河内源氏でもある新羅義光を祖としており、結果的ににいえば、茨城県の佐竹さんの分家になります。
佐竹行義さんの六男である高久景義さんを始まりです。1303年に景義さんの嫡男 である高久義有さんが高久の地頭職に選ばれました。そこが現在の茨城県東茨城郡城里町高久字館になるわけです。
義有さんは、そkに高久城を築き、高久家が続いていきます。高久氏は長く佐竹一門としてその家中として大活躍しますが、関東管領職上杉家と佐竹家との争いによりなんと、1428年に高久義本さんと義景さんが親子で佐竹氏に挙兵し、佐竹家と戦うことになります。が、逆に佐竹家に高久城を攻められてしまい、高久城は落城してしまいました。
一時は滅びかけた高久家でしたが、どうにか佐竹家中に復帰しますが、奥羽の陸奥国の伊達稙宗さんと嫡男の晴宗さん親子(伊達政宗の祖父です)の天文の乱に巻き込まれ、佐竹家が伊達政宗さんの祖父の晴宗さんに味方します。そして、曾祖父方の相馬顕胤さんと合戦になるのですが、この戦いで高久さん一族の多くが討ち死にしてしまいます。
それでも高久義明さんという幼子がおり、高久家は存続することができました。しかし、関ヶ原の戦い後、またしても大事件が起きます。佐竹義宣さんの出羽国秋田転封に家臣として付いていくことになったのです。その後は茨城県民から秋田県民(藩士)と引っ越すことになります。
まー当然のように高久さんの一部は引っ越しに反対し、そのまま茨城県内に残る道を選ぶ人も出ました。その人たちの中には、水戸藩に仕官する人もいました。ということで、高久神社といえば、茨城県桜川市高久770番の高久神社が本家なのかもしれません。
ただし、栃木県の高久さんの地元には高久駅があるほど、地域になじんでいますので、そういう意味では、栃木県の高久さんの方が、大出世したともいえるかもしれません。
高久神社さんの近くの木々についての説明書きがありました。
高久神社さんは公園に駐車し、山を登ってくる人もいますが、車で近くまで来れます。
こちらが高久神社さんの駐車場になります。
高久神社さんの鳥居です。
高久神社さんにお参りに行きます。
高久神社さんの鳥居から本殿が見えます。
高久神社さんの社務所です。普段は閉まっています。御朱印が必要な方は、正月三が日が社務所は開いているので、そこが狙い目です。
高久神社さんは令和の旗が見えます。
高久神社さんの境内に入ります。
高久神社さんでたき火の後です。これは、誰かが先ほどまでいた証拠ですね。
高久神社さんでお参りします。
高久神社さんでした。
住所 栃木県那須郡那須町高久甲693
電話番号 0287-63-0886
高久神社さんの感想
高久神社さんの近くには松尾芭蕉さんが宿泊した名主家があります。そのことから江戸時代には高久地区はとても栄えていたと考えられます。
また高久神社さんはとても手入れがされており、地域の方たちの高久神社さんへの信仰心が伺えます。
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